異邦人の謎log

社会に馴染めない異邦人が好き勝手に書くところ。異邦人は某高IQ団体会員。

麻雀の思考法、ポーカーの思考法

【麻雀の思考法】

麻雀というゲームでは選択肢が限られているため、有限な選択肢から、最善な選択をすることが基本的な思考法となる。
具体的には、手牌はツモを含め最大14枚なので、自分のツモ時の選択肢は最大14択である。その中から一つ一つの選択肢の優劣を比較し、最善な選択を繰り返すという思考が、麻雀の基本的な思考法となる。

【ポーカーの思考法】
ポーカーには、特定の状況毎に特定の正着がなく、頻度でバランスをとることが重要になる。
例えばサッカーのPKで、キーパーが自分から見てゴールの中央よりも右寄りに居たとする。
このとき、ゴール右の空間よりも左の空間の方がいくらか広いので左にシュートしたい。
しかし、このような状況で100%の頻度で左にシュートを打てば、キーパーはそれに合わせて、左に意識をできる限り集中するから、むしろ不利になるだろう。
このような場合、選択の頻度を調整することになる。
右にもシュートを打つ必要があるが、その頻度を左のそれよりも低く抑えるのだ。
このようにして、ポーカーでは場面単位で最適な選択を繰り返すというよりも、プレイ全体のバランスをとるという思考法が重要となる。

社会的存在でないこと

被虐鬱の本を読んだ。

自分は『社会的存在』になり損なった人間だとわかった。
今まで、人と上辺ではたくさん話せても、繋がっている感覚が得られなかったり、どのコミュニティにも馴染めなかった理由が、なんとなく納得できた。

『社会的存在』とは、人が生まれてから、養育者(ほとんどの場合は母親)と愛着関係を結び、社会の規範を内面化した存在だ。
愛着関係とは、感情の共有のことだ。
母親が、お腹を空かせた子供に『お腹が空いたね』と声をかけ、ごはんを食べさせて『おいしいね』と声をかけたなら、子供は『お腹が空いた』感覚や、『おいしい』という感覚の意味を理解し、他者と共有できるようになる。こうして、人の感覚や感情は他者と共有されていく。
感情の共有がなされなかった子供もそのうち、日常の中で『お腹が空いた』や『おいしい』という言葉を理解するが、《あの感覚》と《この言葉》がうまく結びつかない。
もちろん、この感覚が他者にも起こることくらいは想像出来るだろうが、きちんとその確認をしてこなかった子供には確信はなく、意味が曖昧で、言葉の実感が薄いままだ。

感情の共有ができたなら、続けて規範の共有もされていく。
例えば、子供が走り回るとき、母親は『危ないから走らないで』と言う。子供は転んで怪我をすれば『痛かったね、もう走ったらだめだよ』と言う。
この『痛かったね』が感情の共有で、『もう走ったらだめだよ』が規範の共有だ。
子供は、走り回ると怪我をして痛い思いをすることを理解し、『走り回らない』という規範が共有される。

感情の共有がなされなかった子供も、規範を身につけるが、その動機は《規範を守らなければ叱られる》からであって、『社会的存在』のような、《規範を守れば安心を得られる》からではない。

このように、感情の共有の上で規範の共有がなされて、人は『社会的存在』となっていく。

『社会的存在』になれなかった人はどうなるか?
この本ではそういう人を『異邦人』と呼んでいるが、『異邦人』は、感情の共有が抜けているから、『社会的存在』の群である社会に馴染めない。
『社会的存在』にとっては《安心》という見返りのある規範も、『異邦人』にとっては見返りのない《義務》だ。
『社会的存在』にとって日常は《安心》であるのに対して、『異邦人』にとって日常は終わりの無い《義務》だ。
それはどうしようもなく生きづらく、どうしようもなく疲れるだろう。
(念のために書くと、この本では『被虐者≒異邦人』となっているが、自分は幼少期にそれほど悲惨な経験はないというタイプの異邦人だ。
だから、典型的な『被虐者の異邦人』と比べれば、大した苦労はしていないだろうと思う。)

自分が『異邦人』ならどうすればいいか?
その処方箋は本に書かれていた。
それは20歳で行き詰まった自分が、すでに向かっていた方向だった。
それは簡単に言えば抽象的になるが、社会と世界の宙釣り状態の存在(異邦人)が、社会を生き直すか、世界から社会を生きるかだ。

自分が『異邦人』だったのは割とショックだった(他者の感情をあまり理解できないことになるから)けれど、事実を認識して、自分の前提を確認できたことは、きっと良いことなのだろう。